EspritdeKzhrot’s diary

Pick up the interesting topics of naval security from the U.S. Department of Defense and U.S. Navy trend reports and so on. Also, I will make a note and follow on my ideas.

無謬はむびゅう

#無謬 #Infallibility は判断に誤りがない事ひいては絶対的に正しい事にも。

 

謬は道に外れるとか間違える意で読みはあやまる。無謬の読みはむびゅう。時々むびょうとふりがなされる事があるが只の誤りみたいだと。

 

さて、昨今の風潮に見える社会的責任があろう人たちの挙げ足取りの言い合いや、ポリコレ論が幅を利かせる日本社会の無謬性は建前に過ぎ、逆に社会生活の生き易さを狭めている事がままあると感じます。

 

また、もともと地味に努力する気がないがチヤホヤされたいとか、そもそも社会に適応できない人が、ダークサイドに落ちないようセーフティーネットとしての役割を果たしていた業界に、一般社会より高度なコンプライアンスを求めるのは無理と言うより皮肉ですらあ里ます。

 

法令遵守の範囲に留まらず、道徳や社会の要請に応えるなどの、高いコンプライアンス要求レベルは、無謬性の伝統と文化とは言え、そもそも無理ゲー過ぎて実現性が低い。

 

日本国憲法では、損害賠償請求の憲法17条、及び国家賠償法により、国家の無謬性を否定しているにも関わらず、多くの人々は国家の無謬性を強く求め、また一方で現社会態勢に反対する人たちはそれを利用しようとしています。

 

例えば民事問題で、明らかに民間業者の誤りでも、被害者は「行政の責任」と国のせいにすることは日常的に見られます。すると行政は、トラブルが起きると行政の責任を追及されるので、当然のように規制して予防する悪循環に陥り規制緩和はすすみません。また、この思いは大手の民間も同様で、例えばコロナワクチンの遺伝子操作など、リスクが大き過ぎて及び腰になるのもわかります。

 

人は間違うとして、失敗の責任を追及するより、再発防止や被害者救済を話しあうのが良いと誰もが思うでしょうが、なかなかそうは問屋が。

 

国家の無謬性は、イントレランスに向かうより許容値を拡げる方が皆が住みやすいのではと、自由主義と民主主義の持つ二面性とか両刃の刃とのバランスを思うこの頃です。

#聖書無謬 #憲法無謬 #国家無謬