EspritdeKzhrot’s diary

Pick up the interesting topics of naval security from the U.S. Department of Defense and U.S. Navy trend reports and so on. Also, I will make a note and follow on my ideas.

横浜市中区内田町

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今週のお題「住みたい場所」

お題の趣旨とちょっと異なるかもしれませんが、今でも住めるなら住んでみたい故郷について。

ちなみに、住居表示や郵便番号はあるものの、現在の世帯数や人口はゼロで、おそらく住民登録とかの手続きはともかく、実際の居住者はいないのではと思われます。

 

父方の祖母から聞いたと思う話は記憶曖昧です。

祖父は私が生まれる前に他界しており、祖母の話も、おばあちゃんと孫の話で曖昧であり、話が聞ける程度に成長したころにもっと話を聞いておきたかったと今になれば思います。

 

明治の中期から終わりころの横浜の話、そのころに「浜っ子」という言葉があったかわからないが、もともと横浜は東海道の神奈川の峠から見える小さな浜で住む人も多くはなかったので,、そのころは随分と人口は増えてはいても、横浜で生活する人の大部分は他所からの入植者だったと思う。

 

曾祖父あるいはその先代が横浜に入植した太田町の家の者で、内田町で炭屋を営み、外材を輸入し信州かどこかで炭にして、横浜船渠に納める商売、工場や今でいう社宅の燃料の商いをしていたことは父や叔母も記憶しており、聞いたことがあります。

そのころの終戦前までは、内田町には町内があり居住者も居て、学区は本町小学校、家の墓は神奈川駅の丘の上のお寺にあって、関東大震災と空襲という2度の壊滅的破壊を経ても今でもそこにあるのは、まさに国破れて山河在りだなと思います。

 

みなとみらいのなる前の内田町はもっと広かった気がしますが、実際には海沿いの街なので、埋め立てが進んだ今の方が遥かに大きいはず。

内田町は今は道路の一部と横浜銀行の低層階の一部及び線路の飛び地になったとのことで、世帯数や人口はゼロ。

何故桜木町に整理されず残ったのかは不明だそう。

今は根岸線は高架になって、古い貨物の引き込み線?のレールも撤去された(たぶん全て?)ようです。

高島町にかけ随分と変わったようなので歩いてみなきゃと思いつつ、長いことご無沙汰してしまいます。

 

ウィキでは次のようなことが。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E7%94%BA_(%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E5%B8%82)

・1869年(明治2年)3月より、久良岐郡戸部村地先の野毛浦から石崎にかけての海面15万坪が、品川駅-横浜駅(現 桜木町駅)間の鉄道敷設を目的として埋め立てられた。工事の請負人は内田清七と福島屋長兵衛で、主要部分は1870年5月に竣工した。

 

野毛のあたりが海岸線だったのか、そういえば紅葉坂からお伊勢さん、成田さんの方の坂の海側は堀が作られていて(今は首都高)、そこから先は埋め立て地ぽいので、海岸線だった感じがありますね。

 

・1896年に横浜船渠が稼働を始めると、内田町と橘町、緑町には職工の住居や船員の宿舎ができた。

 1903年横浜市第1回人口統計および横浜経済文化事典によると、内田町には348戸があり、1,711人の住民が暮らしていた。

 1923年9月1日に発生した関東大震災では町内の全戸が倒壊し、火災により焼き尽くされた。28人の死者が出たが、大半の死因は圧死と見られている。

 

 この1,711人のうち何人かが家族と奉公人さんたちかもと思うと他人事ではなく感じます。

 関東大震災当時(二十歳前と言っていたと思う。)の祖母は、関内の方にあった農工銀行に勤めていて被災し、フライパンでウインナーを炒めるようにコロコロ転がってしまい、這って逃げられなかったとよく言っていました。

 農工銀行と正金銀行は、今の海岸通り四丁目、横浜銀行あたりにあったのか、もっと関内駅の方か。内田町から徒歩や人力車で通ったといっていました。

 震災では多くの人が火に追われ川に逃げ亡くなり、堀川か大岡川の話と思いますが、川に逃げるのもだめだとも言っていました、おそらく酸欠になるのでしょうか。

 ところで山下公園、震災瓦礫の処分場として埋め立てられ整備されたのは皆さんご存知ですか。当時のことだから、埋め立てには歴史遺構的なものもそのまま廃棄されたのではと思います。

 

・1944年8月には、造船所を守るため防空法が施行され、県知事命令により内田町・橘町・緑町の全222戸が建物疎開のために取り壊された。

 敗戦一年前になりました、強制疎開です。

 

・当初は1~12丁目が設けられていたが、1887年に3~5丁目を長住町(のちの緑町、現在のみなとみらい)に編入し、内田町1~8丁目に再編。1944年に、西区設立により6~8丁目が西区の所属となる。西区部分は1966年5月1日に高島1丁目および緑町に編入された[7]。中区部分の町内の大半を占めていた、貨物専用の東横浜駅は1979年に廃止され、跡地は桜木町駅の駅前広場や横浜みなとみらい21として再開発された。

 平成に入り、現在の町域を除く部分は桜木町1丁目に編入された。その時期は、1989年から1992年の間と推測されるが不詳である。

 

 平成の開発事業なのに、30年前の記録もなく不詳なのかと驚きます。

 昨年からコロナで訪ねていませんが、実家の古いアルバムなど、母が残たものを出したりしていろいろ調べてみたいと思います。町内会の地図などあると面白いですが。

 

 “謎の多い内田町。なぜ桜木町やみなとみらいにしなかったのか?”. はまれぽ.com さんが調査されています。

また、川瀬誠治『幻の町 建物疎開で消えた緑町、橘町、内田町について』まつ出版、2013年1月15日。ISBN 978-4-944069-55-2。に詳しいようなので、機会を見て閲覧しようと思います。

さらに調査ケイゾク

 

2021/7月

お題を見て追記しました。

 

hamarepo.com